明橋大二 / 『なぜ生きる』『10代からの子育てハッピーアドバイス

charlie4322008-06-19

 6月17日、宮崎勤(元)死刑囚に死刑が執行されました。埼玉県と東京都で幼女連続誘拐殺人事件が起きたのは1988年から89年にかけてのこと。

 そして先日8日、秋葉原通り魔事件。

 この20年の間には、地下鉄サリン事件(1995)や神戸連続児童殺傷事件(1997)、池袋通り魔殺人事件(1999)、下関通り魔殺人事件、附属池田小事件(2001)、秋田小1男児殺害事件(2006)など、、、様々な通り魔やバラバラ殺人などが起き、その度毎に、多くの人が心を痛めました。

 これらは、個人的な怨恨や人間関係のもつれからくる悲劇とは違い、見知らぬ他人や力のない幼児が被害者となっており、加害者に対し「どうして?」と怒りや疑問が投げかけられます。しかも、犯人には罪の意識や反省が見られないことが多く、不気味な印象を与えます。

 このような、人命軽視の傾向はどこから来るのか? 精神科医でベストセラーシリーズの著者である明橋大二さんの書籍2冊から、関連すると思われる記述を集めてみました。

 戦争、殺人、自殺、暴力、虐待などは、「生きる意味があるのか」「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か」必死に求めても知り得ぬ、深い闇へのいらだちが、生み出す悲劇とは言えないだろうか。
 たとえば少年法を改正しても、罪の意識のない少年にどれだけの効果を期待しうるか、と懸念されるように、これら諸問題の根底にある「生命の尊厳」、「人生の目的」が鮮明にされないかぎり、どんな対策も水面に描いた絵に終わるであろう。
「人生に目的はあるのか、ないのか」
「生きる意味は何なのか」
 人類は今も、この深い闇の中にある。

『なぜ生きる』2ページ

 人命軽視を象徴する事件がつづいています。愛知県の高校3年生が65歳の主婦を40数ヶ所も刺して惨殺し、翌日、自首しました。「人を殺す経験をしたかった」と、反省のそぶりは、まったくなかったといいます。アメリカの学校では、銃の乱射が絶えません。凶弾の犠牲になる未成年者は、平成12年の数字では、1日14人にも及んでいます。
 小学生を殺害し頭部を切断した14歳の少年は、世間を震撼させました。しかしこの少年の「ボクの存在は透明だ」という言葉に、共感を覚える若者は少なくありません。
「誰からも必要とされていない私。ガラクタだもの。生まれてこなければよかった」
「なんで生きなきゃいけないのかな。サッサと生きて、サッサと死にたい」
 私の存在は無意味、そんなむなしさを深めている子供たちは、「忘れ物をしたから」「運動会があるから」「先生に叱られたから」と、信じられない理由で命を捨てています。
 自分の命の大切さを知らねば、他人の命も尊重できないでしょう。「死んでもいいじゃん」の無知が、「殺してもいいじゃん」の暴論に、すり替わってゆくのではないでしょうか。
「どうして人を殺したらいけないんですか?」
 高校生がボソッと漏らしたテレビ番組で、シーンと静まり返った出演者たち。パタッと番組が終了し、さまざまな議論をよびました。
「人命は地球より重いからだ」といくら言っても、無駄でしょう。
「どうして地球より重いの?」と突っ込まれたら、終わりだからです。
 どんな人でも、答えに窮するのではないでしょうか。哲学者も、お手上げです。なぜ命が尊いか、説明できた哲学者を知らないと、P・フット(カリフォルニア大学教授)は、論文「道徳的相対主義」に書いています。哲学書を何百冊読んでもわからないのです。

『なぜ生きる』43、44ページ

●人生の目的に渇き切った心は、泥水でもすする

 平成7年の地下鉄サリン事件は、5000人以上の被害者を出しています。オウム信者の中には「自分の存在意義に、正面から答えてくれたのは教祖麻原だけだった」と漏らした青年もいました。人生の目的に渇き切った心は、泥水でもすすらずにいられなかったのでしょう。
 卒業生が未曽有の無差別殺人をはかったことに、最高学府に籍をおく教授がどう責任を感じているのか、講義に筆者は耳をそばだてていました。ところがどの教官も、いつもと変わらぬ授業をつづけていたのです。一人だけ、「どうしてあんな教祖についていったのかな。見るからに汚らしいのに」と最高に低レベルなコメントをしましたが、これが知識人の実態か、とガッカリさせられました。こんな現状に、科学がどれだけ進歩しても、占いはなくならず、迷信邪教がはびこる理由の一端を見る重いがします。
 本当に尊い命と知らされるのは、いつのことなのでしょうか。

『なぜ生きる』46、47ページ

 たしかに世の中、便利になったが、「ああ、幸せだ」という実感がわかないのは、なぜだろうか。欲しいものを次から次へと獲得しているが、際限なくひろがる欲望に、どこまで走っても満たされず、渇しているといえよう。
 日本をはじめ先進国で自殺者が増加し、異常な犯罪や悲惨な事故が多発している。新潟での9年間の少女監禁などは、犯罪史上、例を見ない凶悪事件だ。28歳男の殴打やスタンガンによる暴力にも、悲鳴さえゆるされなかった9歳の少女は、自分の腕や毛布にかみついて耐えたという。
 平成12年は、少年の暴走も加速した。主婦を殺害した少年は、「人を殺す経験がしたかった」とうそぶいた。それを聞いて、「先を越された」とくやしがった17歳の少年は、バスを乗っ取り1人を惨殺、5人に重軽傷を負わせ、長時間乗客を恐怖にたたき込みながら、「何か悪いことでもやったというのか」と供述したという。15歳の男子生徒が、友人一家の皆殺しを計画し、サバイバルナイフで3人を刺殺、残り3人にも重傷を負わせた、と聞くにいたっては言葉をのむよりほかはない。

『なぜ生きる』110、111ページ

「なぜ人を殺してはいけないのか」の問いに、大人たちはギクリとたじろいだ。大人も子供も不幸なのは、生きるよろこびを感じられないところにある。
「人生には意味があるのか」
「苦しくとも生きる価値があるのか」
 人類は、混迷の度を深めている。
 そんな中、“なんと生きるとは素晴らしいことなのか……”親鸞聖人は、高らかに叫びあげられる。こんな生命の尊厳さを知れは、臓器移植してまでなぜ生きるのか、なぜ自殺してはならぬのか、なぜ人命は地球より重いのか、人間存在の疑団が氷解し、諸問題の解決に、たくましく前進できるのではなかろうか。
(中略)
 ただ、一言触れるとするならば、真の人生の目的を知ったとき、一切の悩みも苦しみも意味を持ち、それに向かって生きるとき、すべての努力は報われるということだ。

『なぜ生きる』364、365ページ

家出や非行の対応で、いちばん大切なこと

 もちろん、悪いことを悪いと知らせることは大切ですが、それは、子どももたいていは知っています。知っていて、それでもやる子に、どう言えばいいのでしょうか。

 実は、非行に走る子の心の底には、2つの心が必ずある、と思っています。それは、怒りと、自己評価の低さです。

 怒りは、周囲の人から攻撃を受けた、被害体験が元になっています。
親からの虐待や、暴力、体罰、否定、放任。
兄や姉からの暴力。
学校の先生からの否定や体罰
友達のいじめ。
そういうことをされると、人間は当然、腹が立ちます。それが怒りです。
 しかし、子どもは怒りだけでは、まだ非行に走りません。怒りをバネにして、がんばる、ということもあります。あるいは非行に走っても、それほどエスカレートせずに、いずれ戻ってきます。

 怒りに、自己評価の低さが加わったとき、子どもは、非行にどんどん深入りします。

 要するに、「自分がそういうことをされるのは、自分に価値がないからなんだ」「自分はいらない人間なんだ」「人間のクズ」「どうせ自分なんか……」、そう思ったとき、人間は、捨て鉢になり、世の中のルールに反逆を試みます。
 自分をおとしめることで、自分に対して暴力を働いた人に、復讐を試みます。

 現実には、こんなことをしても復讐にはならないし、たとえなったとしても、そんなことのために、自分の人生がどうなってもいい、というのは、決して賛成できません。
 しかし、本人の気持ちはこうなのです。

 ですから、逆に言えば、この2つの気持ち、「怒り」と「自己評価の低さ」を解消すれば、子どもは立ち直るきっかけを得る、といえます。

 怒りに対しては、いちばん有効なのは、本人に被害を与えた人自身の直接の謝罪です。

 自己評価の低さに対しては、家族が、あなたは大切な人だよ、必要な人なんだよ、ということを、いかに言動で伝えていくか、ということです。

 一生懸命、ごちそうを作って食べさせる、という方法は、「あなたは、どんなことをやろうとも、やっぱり、大切な家族だよ。この家には、必要な人間なんだよ」ということを伝える、大きなメッセージになります。
 それが伝われば、子どもも自然と、「こんな自分でも、見放さないで大切にしてくれる家族を、裏切ってはいけない」と思うようになります。

 子どもを非行や犯罪から最後に守るのは、ルールやしつけではなく、親から大切にしてもらったことから、自然と出てくる、「この親を裏切れない」という心です。

『10代からの子育てハッピーアドバイス』198〜203ページ