トルストイ / 『イワン・イリッチの死』
from the blog 徒然
岩波文庫、米川正夫訳のを読みました。100ページ程度の薄い本ですが、この中に、人生における最も大事なことが書かれている、大変な名作だと思わずにおれません。
時代や場所、人種や年齢、性格、また、能力や経験の有無などに関係なく、全ての人間が共通して直面しなければならない「死」……トルストイは、イワン・イリッチという一人の平凡な官僚の人生を通して、この一大事を読者に迫ってきます。誰もが死ぬまで、本当の死を体験することはありませんが、あたかも、既に死んだ人が、死ぬ間際の心理を克明に告白しているような、生々しい迫力があります。
癌を告知された公務員の苦悩を描いた黒澤明・『生きる』と同質のテーマを読者は考えずにおれなくなります。
必ず死んでゆかねばならないのに、なぜ生きるのか。
「欲を満たすため」「楽しむため」「真理探究のため」「達成感を得るため」「社会奉仕のため」「子や孫のため」「そんなこと考えず、今を一生懸命生きる」……。色々と考えられると思います。何を趣味、生き甲斐にし、価値を重きにするかは一人一人異なるものです。
では、それら、趣味、生き甲斐、目標、価値観といったものは、「このために生まれてきた」という生きるの目的となり得るのでしょうか? 死を目前にしてもその思いは変わらないものなのか?と考えずにおれませんでした。
逆にいえば、いつ死が来ても崩れることのない心の支え、究極的な人生の目的を知ることが、生きている目的なのかもしれません。
平生元気な時は、死といっても他人事で遠い未来のこととしか思えませんが、この作品では、非常にリアルに死が描かれています。
「生きる? どう生きるのだ?」と心の声がたずねた。
「なに、今まで生きて来たのと同じように生きるのだ、気持ちよく、愉快に。」
「今まで生きてきたように、気持ちよく愉快に?」と心の声がたずねた。で、彼は自分の想像のうちで、過去の愉快な生活の中でも、とりわけ幸福な瞬間を選り分けはじめた。しかし──不思議なことには──こうした愉快な生活の幸福な瞬間が、今になってみると、前とはまるで別なふうに感じられた。なにもかも──幼少時代の最初の追憶を除くほか──ことごとくそうであった。
事によったら、おれの生き方は道にはずれていたのかもしれない? ふとこういう考えが彼の頭に浮かんだ。しかし、おれはなにもかも当然しなければならぬことをしたのに、どうしてそんな理屈があるのだ?
「もしそうだとすれば」と彼はひとりごちた。「自分に与えられたすべてのものを台なしにしたうえ、回復の見込みがないという意識をもちながら、この世を去ろうとしてるのだったら、その時はどうしたものだ?」彼はあおむけになって、すっかり新しい目で自分の全生涯を見直しはじめた。夜が明けてから下男を見、それに続いて妻、さらに続いて娘、そして最後に、医者を見た時──彼らの一挙手一投足、一言一句が、夜の間に啓示された恐ろしい真理をことごとに確かめていた。彼はその中に自分自身を見た、自分の生活を形づくっていたすべてのものを見た。そして、それがなにもかも間違っていて、生死を蔽う恐ろしい大がかりな欺瞞であることをはっきり見てとった。この意識が彼の肉体上の苦痛を十倍にした。彼はうめき悶えながら、かけている夜具をひきむしるのであった。
「うう! ううう! うう!」彼はさまざまな音調でわめいた。彼は『死のう』と叫びだしたのだけれど、そのままただ『う』の音を続けているばかりだったのである。
その三日の間、彼にとっては時間というものが存在しなかった。かれはその間ひっきりなしに、打ち勝つことのできない、目に見えぬ力により押し込まれた、黒い袋の中でもがき続けた。ちょうど死刑囚が首斬人の手の中で暴れるように、しょせんたすからぬと知りながら、暴れまわった。どんなに一生懸命もがいても、しだいしだいに恐ろしいもののほうへ近よってゆく、彼はそれを各瞬間ごとに感じた。彼は感じた──自分の苦しみは、この黒い穴の中へ押し込まれることでもあるが、またそれと同時に、ひと思いにこの穴へ滑り込めない事に、より多くの苦痛が含まれている。ひと思いにすべり込むじゃまをしているのは、自分の生活が立派なものだったという意識である。こうした生の肯定が彼を捕らえて、先へ行かせまいとするために、それがなによりも彼を苦しめるのであった。
大命将終 悔懼交至(大命まさに終わらんとして 悔懼交々至る)
と説かれている通りです。悔とは過去に対する後悔、懼とは未来に対する恐れを意味するそうです。「死んだらどうなるのか?」未来に対するこの不安は、それまで築き上げた経験や知識、学問で解決出来るものではないということでしょうか。
考えてみれば、賢愚・美醜・貧富・善悪の隔てなく、全ての人に平等に残酷に降りかかる、人生において最も理不尽な終幕が「死」です。その死の恐怖のあまり、自殺まで考える人の矛盾した気持ちは、分からないでもありません。
この「死」に対する心の準備が本当の生きる目的なのかもしれません。そしてそれを教えるものが本来の宗教、まさしく「宗(むね)となる教え」だと思います。
「生死一如」という言葉もあります。「死」を考えずして、本当の「生」を満喫することは出来ないのでしょう。
ちなみにこの作品では、上述した通り、重い空気が支配していますが、最後、イワンが救われる(?)場面は実に感動的です。
彼は耳を澄ましはじめた。
『そうだ、ここにいるのだ。なに、かまやしない、勝手にするがいい。』
『ところで死は? どこにいるのだ?』
古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。いったいどこにいるのだ? 死とはなんだ? 恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。
死の代わりに光があった。
「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」
これらはすべて彼にとって、ほんの一瞬の出来事であったが、この一瞬間の意味はもはや変わることがなかった。しかし、そばにいる人にとっては、彼の臨終の苦悶はなお二時間つづいた。彼の胸の中でなにかことこと鳴った。衰えきった体がぴくぴくとふるえた。やがて、そのことこと鳴る音もしわがれた呼吸も、しだいに間遠になって行った。
「いよいよお終いだ!」誰かが頭の上で言った。
彼はこの言葉を聞いて、それを心の中で繰り返した。『もう死はおしまいだ』と彼は自分で自分に言い聞かした。『もう死はなくなったのだ。』
彼は息を吸いこんだが、それも途中で消えて、ぐっと身を伸ばしたかと思うと、そのまま死んでしまった。
また、『もう死はおしまいだ』と言ってなくなった「死」は、肉体の死ではなく、「疑惑の心」の死ととらえるべきなのでしょう。
人として生まれたからには、一度は読んでおきたい本だと思いました。