伊藤健太郎 / 男のための自分探し

charlie4322008-08-07


男のための自分探し
伊藤健太郎
男のための自分探し


伊藤健太郎
 こちらのブログで以前とりあげましたが、不覚にも、この絵(←)に惹かれて(笑)買ってしまいました。


というのは冗談で、『なぜ生きる』の著者ということで読んでみました。

 さすがは哲学者だけあって、先人達の文献や言葉を引用し、古今東西変わらない普遍的な真理を、面白い切り口で論じています。

 テーマは「男のための自分探し」

 「恋愛」「性」「結婚」「浮気」「セックス(精子)」など、それこそ「普遍的」な話題をキーワードに

 男は単純なので、お金でも車でも恋人でも、目の前の目標にたどり着けば幸せになれると信じています。だからこそ欲しいものを手に入れようと奮闘するのですが、これぞ遺伝子の思うつぼです。
(85ページ)
という男の実態が明らかにされています。

 あ、女性が読んでも面白い内容だと思います。たぶん。

 この本が書かれるにあたり、参考にされた本の著者の名前を、巻末の〈参考文献および出典〉から書き出してみると、

など、プラトンソクラテスから、ハイデッガーウィトゲンシュタインまで網羅されており、決して著者の主観ではなく、哲学の集大成的な内容になっているところに、本書の奥深さが感じられます。それに加え、“「自分探し」とは、「私が生きる意味」を探すこと”と確認し、自著の『なぜ生きる』へつながる展開に、「自分探し」というテーマの壮大さを思わずにおれません。

 自分とはなにか?

 これが分からねば、「自分の幸せ」も覚束ないでしょう。本書では、前に引用した「遺伝子の思うつぼ」では真の幸福にはなれないことが哲学的に明らかにされています。

「私」と「私の体」の違いを知るのは、実は大変なのです。そしてこの違いこそ、ソクラテスが2000年前に“発見”した事実でした。ほとんどの人は、「私」と「私の体」の区別を知らず、2つを混同しています。
「私が幸せになること」ではなく、「私の体が喜ぶこと」ばかり求めているから、一番大事な「私」はちっとも幸せになれないのです。
(24ページ〜)
「私」と「私の体」とは別であることを理解するのが大切なようです。
 ソクラテスの重大な発見は、「私自身」と「私の体」とを区別したことです。魂(=本当の私)が、体の主人です。肉体は魂の洋服。本当の私にとって体は付属品に過ぎません。

 本書の1章から3章まで見てきたように、私の「体」は生物学的に見れば、精子卵子(の中の遺伝子)の乗り物です。遺伝子に乗り捨てられていく、セミの抜け殻のような肉体を喜ばせるだけで、一生を終えてよいのか。ソクラテスが現代に生きていたら、こう訴えたかもしれません。

(187ページ)
 そこで俄然、「本当の私」とは如何なるものか、知りたくなるのですが、、、
 本当の「私」は、見ることも触ることもできない、ナゾの存在なのです。

 人気グループ「モーニング娘。」(以下、「モー娘。」と略)を哲学して、私のナゾに迫りましょう。
モー娘。」は平成9年に、5人の少女(平均年齢17歳)で結成されました。それから2年間で3人増えて1人減りましたが、平成11年に後藤真希(通称ゴマキ)が加わって、大きな変化が起きます。ゴマキは、メンバーの中でも「レベルが違いすぎる」といわれるほどの逸材だったのです。

 その後もメンバーは頻繁に入れ替わり、「今、『モー娘。』って何人なの?」という会話が、よくなされました。そして平成17年1月に、飯田圭織が脱退して、「モー娘。」発足時のメンバーは1人もいなくなってしまいました。

 メンバーが完全に入れ替わったのに、なぜ「モー娘。」は「モー娘。」と呼ばれるのでしょうか。
「少しずつ変わったんだから、同じ名前でいいんじゃない?」と言う人は、あまり「モー娘。」に関心のない人でしょう。ゴマキ命のファンにとって、ゴマキのいない「モー娘。」は、もはや「モー娘。」ではありません。

 1人抜けても「モー娘。」の意味は激変するのに、メンバーが全員新しくなったのです。それなのに、どうして同じ名前で呼ばれるのでしょうか。人々は何を指して、「モー娘。」と呼んでいるのでしょうか。

モー娘。」という名前は何を指しているのか、本当はよく分かっていないのです。これと同じことが、「私」にも起きています。「私の体」の細胞の入れ替わり方は、「モー娘。」の比ではありません。

(中略)

「私」の正体は?

(191ページ〜)

 突然ですが、ここで休憩。1998年1月28日発売、中澤裕子石黒彩飯田圭織安倍なつみ福田明日香によるメジャーデビュー曲です。

モーニングコーヒーモーニング娘。

 良い曲ですね(´ー`)


閑話休題

「私の体」は目まぐるしく変化していますが、「私」そのもの(魂)は変わりません。
「私」と「私の体」は、別だからです。

「あなた、私を愛してる? 要するに、私の体が目的だったんじゃない?」――男を2秒絶句させる、危険度最高レベルの詰問です。恋人を愛することは、恋人の肉体を欲することとは違います。体が目的のはずがありません!

(203ページ)
「私の体」と「私」が違うことが、色々な角度から明らかにされていますが、
 さて、ソクラテスが論じたように「私の体」と「私」が違うとすれば、「私の体」が死んだからといって、「私」も死ぬとはいえなくなります。Aさんが交通事故で亡くなっても、別人のBさんが同じ瞬間に死ぬことはないのと同じです。
「私」は、「私の体」が死んだあとも残るのでしょうか?
(205ページ)
 以前、少しだけ死んだらどうなるのかを考えたことがありますが、究極的には「分からない」のが実態かもしれません。
「死んだらどうなるのか」、すべての人は全くの無知ですが、分からないものを分からないと自覚することが、無知を脱却する第1歩です。分かったつもりの人は、いつまでたっても無知なまま。
 ソクラテスは、自分は来世については「何事も碌に知らない代りに、また知っていると妄信してもいない」と告白しています。その1点で、ソクラテスは、アテネの大衆より賢かったのです。

 知識人を自称する人は死後を信じませんが、有るか無いか分からないものを「無い」と決めつけるのは、「有る」と信じるのと同レベルの妄信です。

 ソクラテスのように、「私は死後は有るやら無いやら分からない、お先真っ暗な状態だ」と無知を自覚してこそ賢者でしょう。

(217ページ〜)
「無智の知」の言葉の通り、「私の後生は真っ暗だ」と自覚するところに、智恵ある人生が開けるのだと思います。
「ボクは死後なんて信じないぞ! 無いことを証明してやるぅ!」と意気込んでも、100パーセント無駄な試みでしょう。死後がないことは実証不可能です。なぜなら、死後がないことを体で確かめるために自殺しても、来世の私が存在しないなら、「死後は無いことが証明された! やっぱりボクの予想どおりだった!」と勝利宣言することはできないからです。

 死後の非存在は、絶対に実証できません。一方、死後があることは実証可能です。
 もし死後が存在すれば、自分が死んだ時に「ああ! ボクは間違っていた、死後はあったんだ!」と後悔するでしょう。もっとも、それでは手遅れです。

(223ページ)
 確かに、死後は「無い」と信じるより、「有る」と心得ていた方が、賢いように思われます。
 肉体と一緒に魂が死ぬと考えるか、死なないと考えるかで、私たちの生き方は180度、変わります。

 もし死ねば無になるなら、精一杯楽しく生きればよいことになります。罪を犯しても、見つからなければ平気です。どれだけ罪を重ねても、生きている間ごまかし通せば、死ぬと同時に帳消しになるからです。

(中略)

 悪をやっても見つからなければおとがめなし、善をしても正直者が馬鹿を見る。こんな考えが正しければ、この世に「善」も「悪」もなくなります。
 だからカントは、死後は有るとも無いとも証明できないけれども、“なければならない”(要請される)と主張しました。

(209ページ〜)
人は、「今、死ぬ」となった時にすることを、生涯懸けて成し遂げなければならないのです。

 今、死ななければならないとなったら、問題になるのは何か。「私は死んだあと、どうなるのか」ということでしょう。

(中略)

 死を目の前にした時に問題となる、死後の行き先こそ、生涯懸けて解決すべき大問題なのです。

(212ページ〜)
 生涯懸けて解決すべき人生の目的、それは「後生の行き先が明らかになること」と言えるでしょうが、未来を明るくするには、現在の自己が、間違いなく明るくならなねばならないと思います。
「幸福な人生」だけが、何の理由も証明もなしに、「意味のある人生」といえるのです。

(中略)

 本当の幸福になり、人生すべてを愛している人は、「この人生に意味があるのか」と言う必要もないほど、意義深い人生だからです。

 もちろん、幸福な人生に意味があるからといって、本人が幸せだと感じれば何をやっていてもよい、ということではありません。偽りの幸福を追っていた人は、目的を誤っていたと知らされた時、無意味な人生だったと後悔します。

「本当に意味のある人生」とは、「本当の幸福に生きる人生」だけです。

(228ページ〜)
 本当の幸福に生かされて、「人間に生まれたのは、このためであったのか!」と生命の大歓喜を味わった時、それまで胸にふさがっていた、「生きることに意味などあるのか」という暗い心が吹き飛びます。同時に「この幸せになるための人生だったのか」と、生きる目的も意味もハッキリしますから、もはや「生きる意味なんてあるのだろうか」と問う必要がなくなり、「問い」そのものがなくなってしまうのです。

「生きる意味は何か」という悩みは、「それは○○だ」と解答を知ることによってではなく、悩みそのものがなくなることによって、解決されます。

(中略)

「生きる目的」も「人生の目的」も、「本当の幸福になること」です。「それが答えなの?」と思うかもしれません。しかし(中略)言語の限界を知り尽くしていたウィトゲンシュタインは、結局、こう書くしかありませんでした。

幸福に生きよ!、ということより以上は語りえないと思われる。
(草稿)
「幸福に生きよ!」――この先は、ウィトゲンシュタインが言うとおり、哲学を超える問題です。
(231ページ〜)


 んん〜σ( ̄、 ̄=)『なぜ生きる』と同様、いくら分かりやすく書かれているとはいえ、1回や2回読んだだけで真意を完全に理解出来るほど、浅い内容ではないと思います。

 機会があったら、繰り返し読んでみようと思います。ψ(。。)