伊藤健太郎 / 男のための自分探し
こちらのブログで以前とりあげましたが、不覚にも、この絵(←)に惹かれて(笑)買ってしまいました。
というのは冗談で、『なぜ生きる』の著者ということで読んでみました。
さすがは哲学者だけあって、先人達の文献や言葉を引用し、古今東西変わらない普遍的な真理を、面白い切り口で論じています。
テーマは「男のための自分探し」。
「恋愛」「性」「結婚」「浮気」「セックス(精子)」など、それこそ「普遍的」な話題をキーワードに
あ、女性が読んでも面白い内容だと思います。たぶん。
この本が書かれるにあたり、参考にされた本の著者の名前を、巻末の〈参考文献および出典〉から書き出してみると、
- アラン・S.ミラー&サトシ・カナザワ
- アリストテレス
- ウィトゲンシュタイン
- エーリッヒ・フロム
- カント
- キケロ
- グレゴリー・バーンズ
- サルトル
- シェークスピア
- ジェフリー・F.ミラー
- ショウペンハウエル
- ジョン・ロック
- スタンダール
- スティーブン・ピンカー
- スピノザ
- ダニエル・ネトル
- デイヴィッド・バラシュ&ジュディス・リプトン
- デイヴィッド・ヒューム
- ティム・バークヘッド
- デカルト
- テリー・バーナム&ジェイ・フェラン
- ドストエフスキー
- ナンシー・エトコフ
- パスカル
- ビクター・S.ジョンストン
- プラトン
- フリードリッヒ・ニーチェ
- ヘレン・E.フィッシャー
- ヘレン・フィッシャー
- マーティン・デイリー&マーゴ・ウィルソン
- マイケル・R.リーボウィッツ
- マルティン・ハイデッガー
- リチャード・ドーキンス
- リン・マーギュリス&ドリオン・セーガン
- ルクレーティウス
- 内田亮子
- 榎本知郎
- 笹澤豊
- 澤口俊之&阿川佐知子
- 周東筧
- 馬淵和夫&国東文麿&今野達
自分とはなにか?
これが分からねば、「自分の幸せ」も覚束ないでしょう。本書では、前に引用した「遺伝子の思うつぼ」では真の幸福にはなれないことが哲学的に明らかにされています。
「私が幸せになること」ではなく、「私の体が喜ぶこと」ばかり求めているから、一番大事な「私」はちっとも幸せになれないのです。
本書の1章から3章まで見てきたように、私の「体」は生物学的に見れば、精子や卵子(の中の遺伝子)の乗り物です。遺伝子に乗り捨てられていく、セミの抜け殻のような肉体を喜ばせるだけで、一生を終えてよいのか。ソクラテスが現代に生きていたら、こう訴えたかもしれません。
人気グループ「モーニング娘。」(以下、「モー娘。」と略)を哲学して、私のナゾに迫りましょう。
「モー娘。」は平成9年に、5人の少女(平均年齢17歳)で結成されました。それから2年間で3人増えて1人減りましたが、平成11年に後藤真希(通称ゴマキ)が加わって、大きな変化が起きます。ゴマキは、メンバーの中でも「レベルが違いすぎる」といわれるほどの逸材だったのです。
その後もメンバーは頻繁に入れ替わり、「今、『モー娘。』って何人なの?」という会話が、よくなされました。そして平成17年1月に、飯田圭織が脱退して、「モー娘。」発足時のメンバーは1人もいなくなってしまいました。
メンバーが完全に入れ替わったのに、なぜ「モー娘。」は「モー娘。」と呼ばれるのでしょうか。
「少しずつ変わったんだから、同じ名前でいいんじゃない?」と言う人は、あまり「モー娘。」に関心のない人でしょう。ゴマキ命のファンにとって、ゴマキのいない「モー娘。」は、もはや「モー娘。」ではありません。
1人抜けても「モー娘。」の意味は激変するのに、メンバーが全員新しくなったのです。それなのに、どうして同じ名前で呼ばれるのでしょうか。人々は何を指して、「モー娘。」と呼んでいるのでしょうか。
「モー娘。」という名前は何を指しているのか、本当はよく分かっていないのです。これと同じことが、「私」にも起きています。「私の体」の細胞の入れ替わり方は、「モー娘。」の比ではありません。
(中略)
「私」の正体は?
突然ですが、ここで休憩。1998年1月28日発売、中澤裕子、石黒彩、飯田圭織、安倍なつみ、福田明日香によるメジャーデビュー曲です。
良い曲ですね(´ー`)
(閑話休題)
「私」と「私の体」は、別だからです。
「あなた、私を愛してる? 要するに、私の体が目的だったんじゃない?」――男を2秒絶句させる、危険度最高レベルの詰問です。恋人を愛することは、恋人の肉体を欲することとは違います。体が目的のはずがありません!
「私」は、「私の体」が死んだあとも残るのでしょうか?
ソクラテスは、自分は来世については「何事も碌に知らない代りに、また知っていると妄信してもいない」と告白しています。その1点で、ソクラテスは、アテネの大衆より賢かったのです。
知識人を自称する人は死後を信じませんが、有るか無いか分からないものを「無い」と決めつけるのは、「有る」と信じるのと同レベルの妄信です。
ソクラテスのように、「私は死後は有るやら無いやら分からない、お先真っ暗な状態だ」と無知を自覚してこそ賢者でしょう。
死後の非存在は、絶対に実証できません。一方、死後があることは実証可能です。
もし死後が存在すれば、自分が死んだ時に「ああ! ボクは間違っていた、死後はあったんだ!」と後悔するでしょう。もっとも、それでは手遅れです。
もし死ねば無になるなら、精一杯楽しく生きればよいことになります。罪を犯しても、見つからなければ平気です。どれだけ罪を重ねても、生きている間ごまかし通せば、死ぬと同時に帳消しになるからです。
(中略)
悪をやっても見つからなければおとがめなし、善をしても正直者が馬鹿を見る。こんな考えが正しければ、この世に「善」も「悪」もなくなります。
だからカントは、死後は有るとも無いとも証明できないけれども、“なければならない”(要請される)と主張しました。
今、死ななければならないとなったら、問題になるのは何か。「私は死んだあと、どうなるのか」ということでしょう。
(中略)
死を目の前にした時に問題となる、死後の行き先こそ、生涯懸けて解決すべき大問題なのです。
(中略)
本当の幸福になり、人生すべてを愛している人は、「この人生に意味があるのか」と言う必要もないほど、意義深い人生だからです。
もちろん、幸福な人生に意味があるからといって、本人が幸せだと感じれば何をやっていてもよい、ということではありません。偽りの幸福を追っていた人は、目的を誤っていたと知らされた時、無意味な人生だったと後悔します。
「本当に意味のある人生」とは、「本当の幸福に生きる人生」だけです。
「生きる意味は何か」という悩みは、「それは○○だ」と解答を知ることによってではなく、悩みそのものがなくなることによって、解決されます。
(中略)
「生きる目的」も「人生の目的」も、「本当の幸福になること」です。「それが答えなの?」と思うかもしれません。しかし(中略)言語の限界を知り尽くしていたウィトゲンシュタインは、結局、こう書くしかありませんでした。
んん〜σ( ̄、 ̄=)『なぜ生きる』と同様、いくら分かりやすく書かれているとはいえ、1回や2回読んだだけで真意を完全に理解出来るほど、浅い内容ではないと思います。
機会があったら、繰り返し読んでみようと思います。ψ(。。)